平安朝~殿上人の秘曲/東京楽所








雅楽にどハマりしている。

きっかけは図書館で何となしに手にとった宮内庁楽部によるCDだった。
(今回のレビューとは違うもの)
日本人で日本に住んでいながらこの異様な音楽をスルーしてきたのは
あまりにもったいない人生であったと感じる。

まず何から書けばよいのか分からないが、概念的な部分から書くと
雅楽は日本的な要素が多い音楽というより、日本的な要素しかない音楽だ。

当たり前という感じがする人もいるだろうが、
いやいや、雅楽を代表する管弦や舞楽は古代に大陸や朝鮮半島から伝わった
音楽がもとになっているものだという指摘をする人もいるだろう。

もちろんその通りなのだが、それが原型をとどめないほど究極的に日本化されていることが、
「オリジナルを作ることは苦手だが、自分たち流にアレンジするのは得意」
な、日本人の特性をまさに体現していると感じる。

歌謡曲やロックや、あるいは他の文化も、もちろんそのような傾向にあるのだろうが、
何しろ雅楽の場合は「日本ナイズ」にさらされて来た期間が1000年を超えているので、
西洋音楽はもとより、世界各地の民族音楽などと比べても一種異様な外観を呈しているのではないか。

では、その「日本ナイズ」の内容はどういったことか?
他の文化の受容に関しても同様だと思うのだが、大きな特徴は
「変更を加えるとき、全体の体系的な変化を伴わず、ただ単に要素を入れ替えたり付け足したりする」
これに尽きるのではないだろうか。
そもそも日本語自体がそれの良い見本といえるだろう。

で、そのような特性が古代の輸入音楽に対してどのような変化を及ぼしたか・・・?
集中的にいろいろな雅楽のCDを聴いたり楽理を調べたりした、個人的な理解としては

雅楽の管弦・舞楽のもとになった大陸などに由来する音楽は、旋法理論に基づいた体系的な音楽であった。

篳篥や龍笛が奏でていたその旋律は日本人の好みに合わなかったのか、旋律の一部の音を変えて演奏されるようになった。
当然、伴奏の箏や琵琶が鳴らす音と不調和な部分が出てくるのだが、そこは変えずにそのまま伴奏していた。

箏については応仁の乱などの戦乱で右手の技法が失われ、以前使っていた音階を使えなくなったが、
それも当然旋律と合わない部分が出てくるのにそのまま左手だけで伴奏していた。

どうやら、日本人にとって全体的な調和美というのはあまり大切ではないように感じる。
このように変えたい部分だけ変えて、合わなくなっても部分が綺麗なら別にいいやという結果生じた音響が
現在の雅楽であり、部分を積み上げて調和した全体を作るという西洋音楽では決して味わえないズレの妙味がある。
(意味不明に聴こえる近代・現代音楽も、ちゃんと理論があるからね。)

ある意味天然の音楽といえるかもしれない。




で、ようやく表題のCDのレビューになるのだが、
このCDの面白いところは、有名な「越天楽」の 琵琶パート、箏パートが
他の楽器の音なしで、ソロで収録されているところ。

琵琶パートだけで聴くと、ほや~んとした越天楽の霧のような雰囲気から
全く想像できない、硬派な世界が展開されていることに驚く。
それもそのはず、琵琶パートは唐から伝わった当時から変化していない部分だからだ。
平調(越天楽の本来の調子、西洋の旋法でいうところのドリアン旋法)の雰囲気が良く聞き取れる。
ドリアン旋法特有の、太古の昔へ遡っていくような、ある種の深遠な感じがある。

対して箏パートのソロは、右手奏法の廃絶により、本来の平調の七音音階から2つ音が抜けて
五音音階で奏でられているせいで、どこか牧歌的な、うららかな感じの世界観だ。
越天楽全体で聞いたときより、よりまったりした感じがする、こんな風景も隠されていたのだ。

変わるところは変わっても、古い部分もなくならずただ積み重なっていく雅楽では、
同じ曲でも聴き方によってたくさんの楽しみかたができる。
とらえどころの難しさは、よりいろいろなものを汲み取れるということでもある。




2018/06/09(土) 16:07 PERMALINK