ヴィヴァルディ:後期ヴァイオリン協奏曲集






ヴィヴァルディといえば、音楽の授業でも習う「四季」が有名だし、
一つ前のレビューで取り上げた「二挺のヴァイオリンのための協奏曲」のように、
一連の悲しいストーリーやかっこいい場面のBGMのように鳴り響く、
スパーンと覚えやすい泣きの旋律と、ソロ楽器の妙技がケレン味のある、
ポップス、歌謡曲、演歌的な音楽だと思っていた。
(もちろんそういうところが、例えばバッハにはあまりないところで好きなのだが。)

しかし、この後期(というより、実際は晩年のもののようだが)協奏曲集を聴いて、
上記のような印象は彼の作品の初期~中期にのみあてはまるものなのだと分かった。
それくらい、ここに含まれている曲たちは我々がよく知っているヴィヴァルディと印象が違うのだ。

だが、彼の晩年の作品が、ベートーヴェンやブラームスのそれのように
簡潔で澄んだ境地に進化していたのかというと、全くそうではない。

一言で印象を表すなら、すごくとりとめのない音楽なのだ。

メロディーがたくさん出てくるのだが、どれもほとんど印象に残らない。
3秒で考えたような、かつ3秒後には忘れていそうな旋律が現れては消えていく。

その割に転調が機敏で、特に激しく気分が変わる同主短調への転調が多い。
ひどいときには1小節単位で転調したり戻ったりする。
そして不思議なことに、それらに作曲上の計算や意図が全く感じられない。

ソロ・ヴァイオリンには初期の協奏曲以上の超絶技巧が用いられているが、
その技巧も全く音楽自体の内容には寄与しない無意味な難しさで、
延々と終わらない独り言を繰り続けたと思えば、プツッと途切れたように終わる。

これほど内容のない音楽ってないかもしれない。

だが今まで述べた印象は、決してこれら晩年の作品が駄作であるという意味ではないのだ。
いや、駄作なのかもしれないが、不思議なひっかかりがあって何故かまた聴きたくなってしまう。

これと似ている音楽を知っている・・・なんだっけ・・・
そう、シューマンの晩年のヴァイオリン協奏曲や一連のソナタだ!

シューマンの晩年に至って悪化した精神疾患が彼の楽曲に影響を及ぼしているのかは
いろいろな研究があり微妙なところではあるが、一種の奇妙な焦点がズレた感じを受けるのは確かだ。
ヴィヴァルディのこれら晩年協奏曲も、感覚的な話で申し訳ないが確かにそれと同種の印象がある。

ヴィヴァルディがこれらの協奏曲を書いたときにどのような精神状態だったのか知る由もないが、
それからまもなくして彼がウィーンで謎の客死を遂げることを考えると不思議な感慨もある。

ヴィヴァルディとシューマンの晩年の音楽に共通する「奇妙な散漫さ」について考えるため、
インターネット上で探してみたところ、以下のような記事があった。


ヴィヴァルディ中期と後期の作品の構成の比較
http://vivaldi.music.coocan.jp/cgi-bin/bbs4/wforum.cgi?mode=allread&no=515&page=0#561

ヴァイオリンソナタ第3番 イ短調》(WoO2). 第1楽章にみるR.シューマン晩年の断片的手法
(芸大の学生さんの論文であるようだ)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&ved=0ahUKEwjAp4mr4t7aAhXDKJQKHWPcDGAQFggtMAE&url=https%3A%2F%2Fgeidai.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D599%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D17&usg=AOvVaw2TC8ppENmv6E74HgmgbYOL


以上の2つから共通点として読み取れたことは、これら晩年の曲において
音楽を構成する要素が非規則的に、内容の関連性なくランダムに配置されていることである。
(ヴィヴァルディはソロとトゥッティの配置、シューマンは音型の配置というレベルの違いはあるが)

「内容がない」という感じは、曲を構成する要素が関連性なくコラージュのように貼り合わされていることに由来するようだ。
人は何にでも関連性を求める。内容とはまさに関連性のことだ。隠されていた関連性が顕になる(伏線を回収する ともいうが)ことに満足を覚える。
AメロBメロときてサビが来るのはドラマツルギーとして全く合理的だし、ヴィヴァルディの初期の名曲たちもまさにそういった論理を踏み出さずに作られていた。

「奇妙な散漫さ」は、晩年の楽曲がそういう人間の指向性から全く離れた論理で、または論理なく構成されていることから来るのだろう。

ヴィヴァルディがなぜこのような曲を作るようになったのか、社会的、文化的、精神的理由の考察もあるかもしれないが、
これらの晩年の曲たちはそういった関連性の論理からすると駄作だろうし、現在や未来の、もう少し違った感性からすると傑作となるかもしれない。


まあ、そんなことは置いておいても、これら晩年の協奏曲たち、ヴァイオリンを持った天使がオーケストラに紛れ込み、
指揮者や合奏を無視し曲と関係ない得意の超絶技巧を披露して、独り悦に入っているような超越的な無垢さを感じなくもなくて
私はとても気に入っている。やっぱりシューマンとつながったな。

2018/04/29(日) 13:45 PERMALINK
ヴィヴァルディ 二挺のヴァイオリンのための協奏曲op.3-8 メンゲルベルク&ACO







しれいかんさま。

貴方様へのお手紙を、この懐かしい呼び名で始めることをおゆるしください。

しかし、ほんたうに貴方様はわたくしにとつての司令官様なのでありましたから。

いえ、わたくしたち姉妹はみな胸の内では「しれいかんさま」に秘かなあこがれを持つておりましたのです。

眩いやうな第二種軍装の白に身をつつまれた貴方様を一昨年、加瀬の駅でお迎えした際に

子供時分の水兵さん遊びが現実になつた、というとお怒りになるでせうが、

そのやうな幻想的な、非現実的なあこがれが、「しれいかんさま」という響きとともに

恋、お恥づかしうございますが、そのはつきりとした形でわたくしの中に示された事を感じたのでした。

それより少し前、貴方様が兵学校に進学され郷里を発たれるきわに、「春ちやんは可愛いなあ」

と、姉様達に気後れし一言も発せなかつたわたくしの両脇の下を持ち上げ、

むかしなつかしい「たかいたかい」をしてくださつたこと、姉様達も見ている前なのに、

子供あつかいは恥づかしい、もうそのやうな歳ではないのに、と赤面する一方

秘かな優越感のやうな、そんな気持ちになつていたことも告白せねばなりません。

貴方様の高野山の御守りも今でもだいじに持ち歩いております。



予断をゆるさぬ状勢下ではありますが、このやうな小さい思い出は日々を生きる糧です。

貴方様は御立派に軍務を全うされていることと存じます。

御存知のことでせうが、加瀬の里にも適性合致者がわたくしたち姉妹を含め、複数人選抜され

わたくしたちでも、此の世界全体への未曾有の受難に対し、少しでも力になれると信じております。

いつかお会いできるのか、さうとすればどれくらい先なのか、そればかりが先に立ちますが、

きつと同じ時代で、同じ国で斯うしてお互い生きているのですから、二本の線のやうにまた交わることもあるだらう、

いえ、きつといつの時代でどこの場所であつてもさうだ、

こんな哲学的形而上的運命、を信じてもよい気持ちになつているこのごろです。

さういえば、わたくしにビオロンを教えてくださつたのも貴方様でありました。

二挺のビオロンのためのコンセルトを、第一ビオロンの貴方様を頭の中で鳴らしながら弾いて、悦に浸るわたくしであります。

もしかしたら、もしわたくしたちがまたお会いして、二人でそれを弾いたとしましても、きつとそれよりも美しくはならないと

思えるほどの、その甘美でかなしい音楽をききながら、今もこの筆をとつております。



しれいかんさま。

貴方様がほんたうの司令官様になるまえに、少しだけそれこれの昔話を取り出してみたくなつたのでした。

いつまでも貴方様の春ちやんでおります。

ごきげんよう。






(艦これ「春風」と「メンゲルベルク指揮のヴィヴァルディ」から着想した二次創作的レビューです。)

https://youtu.be/WU6cCh_fNF4
2018/04/27(金) 13:53 PERMALINK
メンデルスゾーン : 交響曲第3番「スコットランド」







私は関西の団地生まれで、高校のときまで新興住宅街で育った。

むかし宮沢賢治や太宰治をよく読んでいて、東北の自然や風土に憧れがあったので

仙台に所在する大学に行ったのだが、

http://washizu.org/og/men2.html

上記の記事で、ユダヤ人でありながらキリスト教徒だったメンデルスゾーンが、

信仰の問題を考えることに疲れてスコットランドという異郷(異教)的なものに共感していった、

という解説を読んで、なんとなく通じるところがある気がした。

新興と信仰をかけているわけではない。



団地や新興住宅地も嫌いではなく、むしろ好きなのだけど、それは冷たいノスタルジーというか、

「すごく落ち着く不安感」みたいななんとも言い表せない感じ。

今から思うと、東北という異郷にその不安感を包み込んでくれる何かを期待していたようなところがあったのかもしれない。

メンデルスゾーンも北の異郷スコットランドにそれを求めて渡英を重ねたたのかもしれない。

仙台はかなり都会なのでそんなに好きではなかったけど、

東北を一人旅しまくって山の中や海辺の道を何時間も、特に目的もなく歩いたあの感じは自分の中に染み付いていると思う。

遠野の夏の鮮やかな空や、津軽の冬の地平線まで真っ白な雪は忘れられない。何処かは忘れても景色だけ鮮明に覚えている場所もある。

スコットランド交響曲の、あのゆっくりとした序奏が始まると、始発のローカル線の窓から見た、霧に包まれた東北の山々が思い出されてくる。

曲が進んでいくにつれて、その地に住んでいた蝦夷といわれた人々の、歴史の中に消えていった様々な出来事を思ってみたりする。

そしてその血や記憶はもしかしたら自分の中にもつながっているかもしれないと思う。

いつしか、想像の中で最上や北上といった東北の名を持つ少女たちに、蝦夷も、自分も、この曲も重なって聴こえている。

何を言っているのか自分でもよくわからないが、もし文章がすごく上手くても十全には表現できない気がする。

自分の中ではスコットランド交響曲はみちのく交響曲となっている。メンデルスゾーンも理解してくれるはずと思う。



(以前に書いた文章を少し修正して載せました。)
2018/04/25(水) 15:31 PERMALINK
シューベルト : ピアノ・ソナタ第18番ト長調(pf:スヴャトスラフ・リヒテル)






幹線道路にも近い新駅を降り、新興繁華街の反対側へ廻る。
郊外の広大な土地を利用して、そこは貨物のターミナルとなっており、
隣接して流通倉庫が立ち並んでいる。
巨大な立方体群と空が同じ灰色をした土曜の午後。
倉庫街の入り口に、唯一コンビニエンスストアが赤と緑の色彩を添えている。

そこで買い込んだコーヒーを片手に、このような単純な景色の中を徘徊することが、
いま中尾の人生の唯一の楽しみらしい楽しみであった。
特に何を見るでもない。何を考察するでもない。
直線と面により多くを構成された単純な風景は安らぎを呼ぶ。
ただ単に巨大な建造物が好きなだけなのかもしれない。
郊外の無機質な風景はわれわれの「近代」以後の、神の不在な荒野を連想させるかもしれないが、
その現実的な用途のみのために巨大な(それ故に何の意味も権威も持たない)、
倉庫や団地やゴミ処理場の前に立つとき、中尾は一種の感動のようなものを覚える。
それは、教育や探求により道徳や規範といった神理が認知される前、
単なる巨岩や巨木に畏敬の念を覚え神性を感じていた
われわれの祖先が持っていたであろう、アプリオリな境地であるのかもしれない。

そんなことを思ったり思わなかったりして、中尾は幽霊のように漂う。
懐かしい寂しさ・・・冷たいノスタルジー・・・どの角を曲がっても同じ灰色・・・

コーヒーに唾を入れてくれるおせっかいな神。
中尾はついにそのような存在を必要としなくなった。


2018/04/10(火) 13:40 PERMALINK
そうです 私がモーツァルトです







クラシック音楽のCDを聴いて感動するとして、
その感動は主に何に対して感じているのだろうか?
同じ曲でも演奏の違いによって感動する場合とそうでもない場合がある。
一方、よっぽどでない限りどんな演奏でも感動すると思えるほど好きな曲、というのもある。
例えば、感動の内訳は曲そのもの7割・演奏3割 みたいに単純に画定できるものだろうか?
感動の種類分けという事ができるものだろうか。

演奏家にとって、会心の演奏とは「曲自体になりきる」ような状況なのかもしれない。
それは作曲家の心境や思惑を演じたりだとか、トランス的な没入状態、というのとは少し違って、
なんかこう禅的な、主客一致の境地というか、そのようなものではないか・・・
私は何も演奏出来ず聴くだけなのだが、そんなふうに想像している。

同じく、作曲家にとっても会心の作曲とは「音楽の神自体になりきる」事と言えるかもしれない。
音楽が最高の状態で再生されている状況というのは、
聴衆が演奏者と一体化し、演奏者は作曲家と一体化し、作曲家は神と一体化している、
音楽を通して万物一如の状態が達せられている状況なのかも、と思っている。

(だがここで注意しないといけないのは、上で述べたような事は
「音楽で皆わかり合う、世界がつながる、平和になる」
的なヒッピーぽい思想とは、似ているようで決定的に違うということだ。
音楽による感動は、幻想の世界や、思い出や、死者や、宇宙の果てと繋がっているかも知れないが、
生きてる関係ない人の行動を変えることはできないのだ。)




2018/02/02(金) 15:37 PERMALINK
シューベルト:楽興の時 第6番(pf:ウィルヘルム・ケンプ)








A、B、A、Bといったふうに、同じ形をした家が順番に建ち並ぶ。
アスファルトではなく、レンガを模して美しく舗装された道路。
家並みはベージュやグレー系の彩度の低い色で統一され、
まだ分譲が始まったばかりという事もあってか、洗濯物や車などの生活感もない。
なんとなくポリゴンの画面のような単純さがある。

大井は、土曜日の新興住宅地を、比較的足取り軽く帰路に着いていた。
午後の空は薄い雲に覆われ、灰色に光っていた。

住宅地のある丘の裾を通る幹線道路が、学舎から寮への最短距離ではあるのだが、
大井はあえて坂道を登り、住宅地の中を通って帰っている。
幹線道路の喧騒を避けてのことでもあるが、この低彩度で情報量の少ない風景が、
彼女の精神に安定を与えると思えたからだ。
また、不思議なことに、大井はこの新興住宅街に懐かしさをも覚えている。

青森出身の舎友は、千葉の風景は故郷に似ていて安らぐ、などと言うのだが、
大井は海や山や田畑といった風物ではなく、むしろこのような無機質にこそ安心を感じるのだった。
量産型の風景…どこでもない街…冷たいノスタルジー…

大井は、この風景の中を全裸で闊歩する自分を想像した。
それは神話世界で遊ぶ神々の姿のようであった。
神秘そのものであった。
2018/01/25(木) 11:35 PERMALINK